思考の整頓

"もやもやしたもの"に輪郭をあたえる

日大アメフト部・内田前監督、アラーキー、島田紳助の共通点とは

 

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「一時代を築いたほどの人や組織が時代に取り残され、その結果、業界から消える」というようなことが度々あり、前々からそれがすごく疑問でした。

人気長寿番組とかもそうですね。なぜ栄華を極めたような人でも淘汰されてしまうのか。

今回、日大アメフト部の内田前監督の一連のニュースを見ていて、一つ確信したことがあります。

それは「世界は変化しない者を嫌い、動き続けている」ということです。


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そのことを理解していただくために、まずいくつかの話をします。

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僕が中学生の頃に通っていた塾は、少数精鋭の日本一偏差値が高い中学生が集まる塾でした。

僕の代で灘高校合格者数8年連続日本一。灘高トップ合格者も同じ塾の友達でした。

高校受験専門の英才進学塾として有名で、わざわざ兵庫県の西宮にあるこの塾に通うために、四国や北海道などはるばる県外から通っている人もいたくらいでした。

この塾が他の塾と違っていたことはざっくり三つあります。

一つは「終わらないほどの膨大な宿題が出る」こと。

やってもやっても終わらないので、中学生にして毎日深夜まで勉強することになります。いわゆる詰込み型のスパルタ教育でした。

二つ目は「成績にとてもシビア」ということ。

毎月、〝月例テスト〟というものがあり、そのテストの成績で教室での席順が決まります。成績が良い人から順番に前から座っていき、成績下位だと当然後ろに座ることになり、黒板が見えないこともありました。

そして、最後の三つ目は「体罰がある」ということでした。

ある先生は、小テストの成績が悪いと、自分の前に並ばせて、「歯を食いしばれ!」と言い、一人ずつ顔面を思いっきりぶっていきます。

僕は勉強がかなりできない方だったので、何度も何度もぶたれました。

毎年8月に行われる夏合宿では、先生がみんな竹刀を持っており、ちょっとでも悪さをすると(例えば、自習中騒いだり、花火にエイトフォーをかけたり(火力がめちゃくちゃ上がります))、その竹刀で一人ずつ生徒の頭を叩いていきます。

(僕はその時竹刀で叩かれはしなかったですが、その後高校の体育の剣道の授業で初めて竹刀を触り、防具をつけていても叩かれるとかなり痛いことを知りました)

 

もちろんこれは平成の話です。

「親父にもぶたれたことないのに!」というセリフがありますが、僕は後にも先にもあんなぶたれ方をしたことは一度もありません。

90年生まれの僕より下の世代にこのことを話すと、「体罰とか絶対ありえない!」という顔をされると思います。同世代やちょっと上の代でもなかなかない気がしますね。

僕の代(2006年卒)で、8年連続灘高校合格者数日本一(募集40人に対して約20人ほどが合格)でしたが、そういったスパルタ詰め込み教育が徐々に世間から受け入れられなくなっていったのでしょう。

その2年後に連続記録は潰えることになります。

そして、2018年現在、塾の実績はそのときの見る影もありません。

一時代、高校受験業界で栄華を誇っていましたが、昔ながらのやりかたを変えられず、気付いたら、ガラパゴスと化していたのでしょう。(塾大好きだったので、卒業生としてとても悲しい!)

僕が中学生だった頃は、「しっかりお勉強して、いい高校いい大学に入って、いい企業に就職できれば、幸せになれる」と親や教師からギリギリまだ信じられていた時代だったのかもしれません。

 

これを書くにあたり、今の灘合格者数日本一の塾のサイトを見てみましたが、いい意味でとても今風でした。僕が中学生なら(または親だとしても)、「昔ながらのスパルタ詰め込み教育」の塾よりも、絶対にこちらの塾に入りたいと思います。

このように時代が変わると、その時、良しとされる「価値観」は大きく変わります。そして、その変化に適応できなければ、淘汰されてしまうのです。 

 

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この「価値観」というものは、時代の節目で180度変わります。

少し時を遡ると、1945年がそれにあたります。

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例えば、戦前、子どもが「お母さん、ぼく大きくなったら陸軍大将になるね!」なんて言うものなら、「よくぞいった」とお母さんから涙ながらに背中を押され、お父さんからは「さすが俺の子だ」と言われたでしょう。

なにせその頃の陸軍大将は〝国の英雄〟ですからね。

 

しかし、時代は変わります。時代が変わると、価値観も変わることになります。

そうやって英雄となった子どもは、1945年8月15日から一ヶ月も経たないうちに、国に尽くしたために戦犯となり、歴史に残る極悪人とされてしまいます。

かつての〝英雄〟が、戦争の〝大犯罪者〟として処刑されることになるのです。

〝絶対的な正義〟だと思われた価値観が180度変わった瞬間です。

時代が変われば、価値観や常識、ルールそのものが変わってしまうのです。

 

 

こう言うと、「戦争なんて昔の話過ぎて参考にすらならない」「オレ、平成のゆとり世代だし」と思うかもしれませんが、これは実は身近に起こりうる話です。

例えば、〝フライデー襲撃事件〟って知っていますでしょうか?

フライデー側のいきすぎた取材に抗議するという名目で、ビートたけしたけし軍団が編集部に乗り込んだ騒動です。

(今は文春に押されていますが)それまではフライデーは、180万部売れている日本一の雑誌でした。なんと女子大生が電車で読むような雑誌だったのです。

しかし、この事件をきっかけに一晩で、フライデー編集部は日本一酷い人たちに変わってしまいました。

国の英雄だった人たちが、たった一日で極悪人となったようにーー

 

このように時代によって〝正義〟または〝悪〟とされる価値観が変わった例なんていくらでもあります。

ナイチンゲールが生きた時代は、看護師は知性や品性のかけらも感じられないような社会的身分の低い仕事だと見なされていたし、ほんの数十年前の吉本は刑務所のような場所で、どうしようもないやつらの集まりとされていました。

 

つまり、時代が変わると、突如として

・英雄が戦犯になる
・出世街道にいた人たちが、職を失う
・輝いていた職業が、軽蔑されるようになる

のです。 

 

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一ヶ月ほど前に、問題となった写真家の〝アラーキー〟こと、荒木経惟もそのうちの一人でしょう。

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荒木専属として作品の被写体モデルとなったKaoRiさんがアラーキーから受けた性的虐待を告発し、それに触発された水原希子が自ら受けたセクハラやパワハラを自身のInstagramで公にし、話題となりました。

アラーキーはおそらく女性を下に見ていたのだと思います。男性の方が偉く、そして地位も名誉もある自分は女性に対して何をしても許される、くらいに思っていたのでしょうか。

昔はそれでも許されていたのかもしれませんが、今はそうはいきません。どう考えても時代錯誤なことをしてしまっていた。

その結果、専属の被写体モデルという仕事のパートナーであり、自分の最も身近にいた人から告発されることになります。

 

また、およそ7年前、島田紳助がヤクザとの関係が公になり、芸能界から引退を余儀なくされました。

このとき、たまたまヤクザとの関係が暴露され、引退することになりましたが、島田紳助のこの芸能界追放は遅かれ早かれ起こりうることであり、〝必然〟だったと僕は思います。

というのも芸能界で島田紳助ほど酒池肉林を地でいくよう人は他にいないからです。

今の世間様がそれを黙っているわけがありませんからね。

彼もまた過去の価値観を引きずり、変化できなかった者のうちの一人だったのではないでしょうか。

 

日大アメフト部の内田前監督の良くなかった点はいくつも挙げられると思いますが、その中での一番の大罪は「変化できなかったこと」だと僕は思います。

現に内田前監督は「俺は昔と何も変わっていない!」のようなことを最初述べていましたが、

「何も変わっていないから、俺(またはラフプレーをした宮川選手)は悪くない!」と思ったのかもしれませんが、「何も変わっていなかったこと」が問題だったのです。

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それでは、なぜ一時代を築いたほどの者たちが変化できないのでしょうか?

 

それは「中心」にいるからです。

中心にいる人ほど変化に気づくことができません。

時代が変わる時、危機が迫っていても最後まで気づかず滅びるのは、中心にいる人たちです。

中心にいる人は、過去の成功体験を捨てられないと言ってもいいでしょう。

周縁にいる人たちからちょっとずつ変わり、中心にいた者が気づいた時にはすでに遅く、内田前監督みたいに、「淘汰されるか、変化を余儀なくされるか」、どちらか一つになります。

時代の節目は価値観がひっくり返るのです。

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それはまるでトランプゲームの「大富豪」で〝大富豪〟が負けると、いきなり〝大貧民〟まで落ちてしまうようにーー

〝革命〟でルールが変わり、カードの強さが真逆になり、今までほとんど最強だった数字の〝2〟が一番弱くなってしまうようにーー

 

〝中心にいる人たち〟にとって、旧来の価値観によって築かれたシステムを新しい価値観に基づくシステムに切り替えることは、そもそも組織が成立している収益基盤を失うことになります。

それは組織にとって自殺行為であり、そのため旧来の価値観と食い違う分子を徹底的に退けようとします。

しかし、いつの時代も革命を起こすのは、中心にいる人ではなく、周縁にいる人たちです。

時代の節目では、次世代に向かう新しい価値観を創れた者のみが存続を許されるというわけです。

先ほど書いた戦後の話みたいに、価値観がいきなり180度変わるということはあまりありませんが、だからこそ人は__特に中心にいる人は__〝気付けない〟のです。

「自分が一番偉い」と思った瞬間から〝淘汰のカウントダウン〟は動き始めることになります。

未来を切り開くためには、いま手にしているものを潔く捨て去らなければならないタイミングがあるのです。

その変化に対応できず、「変わらない」という選択をした者は、もれなく淘汰され、表舞台から消えることになります。

なぜなら、今までの時代の流れを見ても、世界の摂理は常に「変化」を望んでいるからです。

世界は「破壊と創造」を繰り返すことで成り立っているのです。

 

 

時代が動き、変化のタイミングがきたことに気づいて、自ら過去の価値観を手放せば、痛みは最小限にすることができます。

しかし、今回、それまでの価値観を手放せなかったゆえに、〝日大アメフト部の事件〟が社会問題とまでなり、その〝中心にいた人物〟の価値観は強制的にリセットされ、転換期を迎えることになりました。

人も組織も、TV番組だろうと、古い価値観のうち、引き継ぐべき価値観と捨てるべき価値観を見極め、その上で新しい価値観を作り上げること。

これができるものは生き残り、できないものは滅亡する。それだけです。

島田紳助はテレビに出続けていたということは、視聴者から求められていた存在であり、そのために変わる努力をしてきた人だと思います。

ただ、捨て去るべき価値観を捨てられなかった。だから淘汰され、表舞台から消すことになった、と言えます。

内田前監督もその取り巻きもまさかこんな大事件になるなんて思っていなかったでしょうが、今まさに真価が問われる時なのだと思います。

  

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これらは地球の歴史を紐解いてみても明らかです。

地球上の生物は、何億年という歴史の中で、過去5回大量絶滅しており、これらを総称して「絶滅のビックファイブ」と呼ばれています。

一番最近の5回目は、6500万年前の白亜紀と呼ばれる時代で、いわゆる恐竜が絶滅した時代です。

そして、現在、その6回目となる大量絶滅の時代が来ていると言われています。

今こうしている間にも20分に1種、1日に150種、1年間に4万種という猛烈な速度で、様々な動植物が絶滅しつつあります。

そんな激動の時代に、その時その時の環境に適応し、進化できた生物だけが、次の時代を生きる権利を与えられるのです。

 

「今がめちゃくちゃ多くの生き物が絶滅の危機にある」なんて聞くと、「現代やべぇ」「資本主義社会のせいだ」となりますが、この世界の摂理が「変化」でできていることを考えると、絶滅の危機は自然なことだと思います。

仮にこの世界の創造主がいたとしたら、「そういえば、この地球って星、ここ6500万年くらい安定しちゃってたから、そろそろ滅ぼしとこか」くらいにしか思っていないかもしれません。

ここ数百年で見たら確かに地球の生物はかなりの数が絶滅しつつありますが、何億年という地球の歴史から見たら、そんなに珍しいことでもないのです。現代で6回目ってくらいですからね。

むしろ外来種によって生態系が崩れたり、環境が変わり適応できなくなって絶滅する方が世界の摂理からしたら自然なはずです。

 

我々、哺乳類だって、もともとは爬虫類の下だったわけですからね。

昔は爬虫類にめちゃくちゃ威張られてたわけです。そんな爬虫類が地球環境の大変化に適応できず、いなくなった。

そのおかげで、哺乳類がダーッと出てきて、その結果入れ替わってヒトが出てこられたわけです。

隕石がぶつかったり、地球が急に寒くなったりして、仮に人間がいなくても地球環境はどんどん変わっていきます。

環境が変化していく過程で、うまく適応できた生物だけが生き残り、その変化に失敗すると絶滅し、入れ替わることになるのです。

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そう考えると、これから何千年何万年先、人間が生物のヒエラルキーの一番上にいなくても何らおかしいことではない気がしてきますね。

たまたま今地球を支配しているのが人間なだけであって、何かの衝撃でまた爬虫類か何かに乗っ取られる可能性はあるわけですし。

6500万年前、いったいどの恐竜が哺乳類なんていうちっぽけで、弱っちぃ生き物にこの地球を支配されるようになるなんて思ったでしょうか?

今後、何かの突然変異で「テラフォーマーズ」や「進撃の巨人」みたいな世界になるかもしれません。

ちなみに人間とチンパンジーの遺伝子は98.4%同じ、ですからね。

たまたま、今、人間が一番上にいるだけであって、この世界は人間中心に作られているわけなんてないのです。

 

この世には〝絶対的な正義〟など存在せず、あるのは「変化し続けよ」というこの世界の創造主なるものからの至上命令だけです。

そして、この世界が安定を嫌うのは、おそらく「同一状態を保つと完全に滅ぶ」からだと思います。

だから、存在し続けるためには変化する必要があるのです。

この世界の本質が受け入れられず、変化できなければ、この世界からの「洗礼」を受けることになります。

つまり、「世界は変化しない者を嫌う」のであり、「変化」こそが自然の摂理なのです。

 

 

となると「変化し続けているのに、生き物はなぜ死なないように進化できないのか?」という質問にはこう答えることができるでしょう。

死は、ある意味、生への始まりであり、変化へのきっかけです。しかし、「死なない」とは、変化しないことであり、【変化せよ】というこの世界からの至上命令を無視していることになり、それは世界の摂理に反しているので、死なないように進化できない」

となります。

また、「じゃあ恐竜のいた時代から姿を変えていないと言われている古代魚・アロワナはどうなんだ!この1億年の間、姿を変えることなく生き残っているではないか。それこそ世界の摂理とやらから反しているじゃないか!」というツッコミが入るかもしれません。

確かにその通りだと思います。アロワナは〝生きた化石〟なんて言われますもんね。

正直、このへんの進化生物学の話は門外漢なのでよくわかりませんが(自分で生き物の話を出しといてすみません)、

ただ、一つ言えるのは、「変わらないために、変わり続けている」のだと思います。
 

 

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少し話が広がり過ぎてしまったので、人間社会の話に戻しますが、

先ほど、「時代の節目には価値観が180度変わる」と言いましたが、この時代は〝振り子のようなもの〟でできています。

 

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例えば、3.11の震災を例に説明します。

日本人は、この震災をきっかけに、「絆」の大切さを再認識し、「人とのつながり」を声高に叫ぶようになりましたよね。

支援活動にもTwitterが大いに使われましたし、「やっぱりつながりって大事だ」「もっと血縁・地縁関係を大切にしよう!」と。

 

この頃、注目されたマンガは「ワンピース」でした。(僕の記憶が正しければ、白ヒゲと海軍との全面戦争のところだったと思います)

もちろん今でも大人気ですが、この時期は特にで、ワンピースを題材にした絆について書かれたビジネス書がとても増えました。

ワンピースは、主人公ルフィが仲間を集めながら、海賊王を目指し、冒険していく物語。

ルフィはなにより仲間を大切にし、その仲間に「家族愛」を求めています。

震災後、本当の家族だけでは不安な人々は、他人に「家族愛」を求め、つながりがないと生きていけないような人達が増えました。

だからこそ、他人と絆を結ぶ物語が共感され、ワンピースが社会現象となるくらい話題となったのです。

 

しかし、みんながつながり合った後、人々はどう思うようになったでしょうか?

 

 

 

それは

 

「人間関係ってしんどぉ」

 

でした。

 

「つながりのせいで、自由がなくなった」

となり、この時期から〝SNS疲れ〟という言葉も度々耳にするようになりました。

そして、最終的に、人々は「絆」とは真逆の「自由」を追い求めるようになります。

ノマドワーク〟という言葉が使われ出したのもこのあたりの時期です。

 

このように人々は、自由を得れば寂しくて絆を求め、絆を得ると息苦しくて自由が欲しくなるのです。

(ちなみに、その後、しばらくして、今度は〝ノマド〟とは真逆の〝社畜〟という言葉が生まれることになります)

 

小から大へ、大から小へ。
重から軽へ、軽から重へ。
混沌から秩序へ、秩序から混沌へ。

一つの価値観が飽和すると、対極にある価値観へと時代の振り子は揺れます。

貧しい人が豊かさを求めて必死に努力し、ようやくありあまる富を手に入れても、そこで満たされることはありません。

豊かになると今度は「貧しさこそ、清らかで美しい」と感じます。

だからといって本当に貧しくなってしまうと、「なんてことだ、また豊かになりたい」と渇望するのが人間の心理なのです。

戦後の日本人が貧しさからスタートし、豊かさを追い求めてきました。しかし、その豊かさが飽和しているのは、今の僕たちみんなが実感していることのはずです。

 

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19世紀に活躍した哲学者・キルケゴールはこんな名言を残しています。

「不安とは自由の眩暈(めまい)である」

これは、

「人間は自由であるがゆえに、来るべき未来に、自らがどのような状況に陥るかわからないという強烈な不安に駆られてしまう。人間が自由を手にしたがゆえに、不安は生まれた」

と言っています。

例えば、生まれた瞬間から身分が決まっていれば、自由はないかもしれませんが、その分、自分の将来のことで不安に陥ることはないのです。

人はあまりに自由だと、かえってその自由に不安になってしまうのですね。

 

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また20世紀の社会心理学者・エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』の中でこんなことを言っています。

「自由は近代人に独立と合理性をあたえたが、一方、個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力のものにした」

フロムはユダヤ系の社会心理学者で、ヒトラーが支配するナチスドイツから亡命し、1941年にアメリカでこの本を出版しました。

『自由からの逃走』には、人々がなぜファシズム全体主義に囚われていくのかがわかりやすく書かれていますが、

全体主義から逃れ、やっとの思いで自由を手に入れたのに、再び、人々が支配されることを求めてしまったのは、やはり自由により不安になってしまったからなのです。

戦争や革命によって、独裁者が支配する全体主義個人主義となり、個人主義になれば、再び全体主義が良しとされる。

このように歴史は振り子のように刻まれていくのです。

(そう考えると、アメリカでオバマ大統領からトランプ政権に変わったのも、もしかしたら時代の必然だったのかもしれませんね) 

 

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少し小難しい話が続いたので、最近の話をしますが、ベッキーの不倫騒動以来、世間の不倫を絶対に許さないムードがすごくなりましたよね。

とにかく芸能人の不倫がスクープされる度に、極端なまでの不倫タレント叩きがワイドショーをにぎわせていました。(最近やっと不倫ブームも落ち着いてきた感はありますが)

 

これらの芸能ニュースを見て僕は、

「あぁこれからはもしかしたら〝不倫が許されてしまう〟時代が来るかもしれない……」

そう思ってしまいました。

なぜなら時代の振り子が片方に極端に振りきれると、その反動でもう片方の端に振り子は動くことになるからです。

 

ベッキーの不倫騒動が2016年の年始でしたが、その後どうなったかというと、2016年の末くらいだったでしょうか。

「ポリアモリー」という概念がネットで話題になりました。

勘の良い方は、もうポリアモリーがどんな意味を表すのかわかったかもしれませんね。

ポリアモリーとは「複数愛」という意味です。

恋愛は一対一でするもの、といった従来当たり前とされてきたそんな価値観に一石を投じる、新しい恋愛の形として注目されることになります。

複数愛はさすがに世間で流行るとまではいきませんでしたが、一時期ネットをにぎわせていました。

 

ちなみに、この話はこう言い換えることができます。

仮に「不倫しないことを善」、「不倫することを悪」とすると、「不倫してはいけない」という善の主張が強まれば強まるほど、「複数の人と付き合ってもいいじゃないか」という悪が強まる、となります。

光が輝けば輝くほど、闇は深まるのです

 

このように、世界は絶えず振り子のように、行ったり来たり、動き続けています。

「歴史は繰り返す」という言葉がありますが、時代は振り子のように動いているので、歴史は繰り返されるのです。

歴史とは、ランダムな出来事の連続により創られているのではなく、同じパターンの物語の繰り返しにより創られています。

「時代を読む」とは、そういうことなのです。

(ちなみに先ほど、生物の進化の話になりましたが、生き延びるためにたえず「進化」していなければならないというわけではありません。

「変化」とは、「たえず新しい状態を作り出す」ことだけを意味しているわけではなく、単にいくつかの状態が「ぐるぐる循環する」だけでも十分に変化と言えるからです)

 

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ところで、僕は定期的に新しいことを勉強するようにしているのですが、28歳にもなると「自分より年下の人から習う」ということが少しずつ増えてきました。

新しいことを勉強するということは「その分野で僕が一番知らない」という状況になるので、自分より年齢が下の人に教えてもらうことは当然のことで、

新しく勉強する限り、年を取るごとにこういうことは増えてくると思うのですが、「年下に頭を下げられなくなったら終わりだなぁ」と最近強く感じました。

特に、年下と言えど、仕事ぶりが一流ならば問題ないかもしれませんが、そうではなく、それでもその人から教えを請わなければならない場合。

頭を下げられなくなったら、そこで成長は止まると思いました。

特に本業で結果をだしていて、ばりばり後輩から慕われているような人ほど、なんで?となると思います。

偉くなれば偉くなるほど、年下に頭を下げにくくなるからです。

しかし、「年下に頭を下げられなくなった時」、人は成長がとまります。

ニーチェ「脱皮できない蛇は滅びる。意見を脱皮していくことを妨げられた精神も同じことである。それは精神であることをやめる」と言いましたが、

今まで書いてきた風に言うと、

成長がとまるとは、変化しなくなることであり、必然的にその人は「淘汰」される運命を辿る、です。

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以前、銀座の会員制のbarで働いていたことがあるのですが、

そこにはむちゃくちゃお金持ちの人達が来ていて、

超一流の人ほど一般人扱いされたがり、(僕がこんなこと言うのは本当におこがましいのですが)二流の人ほど偉そうに振る舞い、VIP扱いしないと怒っていました。

偉くなれば偉くなるほど、年下に頭を下げにくくなると先ほど書いたものの、

志が高く、本当に結果を出している人ほど、地位や肩書きに関係なく、僕みたいなものにも対等に接してくれます。なんだったら百戦錬磨の経営者が、僕からすら学ぼうとしていたくらいでした。

そのとき、ずっと第一線で活躍し続けるためには、やはり「自分が楽しみながら、いくつになっても若手に教えを乞うことができるかどうか」だと強く感じました。


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ここまで「世界は変化しない者を嫌い、動き続けている」について書いてきてふと思いましたが、

一時代を築いた者、または組織が、時代に取り残され淘汰されるというのは、ある意味、著しく結果を出した者だけに与えられる〝宿命〟であり、〝試練〟なのかもしれませんね。

それもまた、世界が望んでいる「変化」なのですからーー 

 

 

(参考文献/オススメ書籍:『不安の概念』(キェルケゴール)『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム)『文明崩壊』(ジャレド・ダイアモンド)『若い読者のための第三のチンパンジー』(ジャレド・ダイアモンド)『動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話』(ジュールズ・ハワード)『寝ながら学べる構造主義』(内田樹)『土井英司の超ビジネス書講義』(土井英司) 『2022』(神田昌典))

 

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これを書くまで完全に忘れていましたが、約2年前にも似たようなことを書いていました。具体例に生き物や、テレビっ子なのでテレビの話をしていること、「世界が……」と言っているところなど、全然変わってないですね(笑)2年前よりうまく書けるようになっていますでしょうか?笑

ちょうど2年前に生物学にはまり、今でも時間を見つけては生き物の本を読んだりしています。もっと生き物に詳しくなりたい!