最近、テレビを見ていて心が震えたことがありました。
ある交通事故で愛する妻と娘を同時に亡くしてしまった遺族の旦那さんの発言にです。
この男性は、加害者の居眠り運転のせいで、妻とまだ幼い娘を亡くしてしまいました。当然、言い知れぬ悲しみと怒りでうちひしがれていてもおかしくないのに、取材陣に対してこんなことを言っていたのです。
「こんなに悲しいことは今まで経験したことがありません。しかし、加害者の人生もこの事故のせいでほとんど終わってしまったようなものです。この悲しみは僕か僕以上かもしれません。なんて言ってあげたらいいのかわかりません」
なんとこの遺族の男性は、最愛の妻と娘の命を奪った加害者に対して、怒りをぶちまけるのではなく、彼の人生を気遣っていたのです!
この配慮に非常に心が震えました。僕なら加害者に対して怒りがわいて、妻と娘を返せ!と叫んでいたかもしれません。
そのニュースの後、あるバラエティ番組を何の気なしに見ていたら、「恋人の嫌いなところランキング」が調査されていて、タバコを吸うことやギャンブルをするところ等をおさえて、1位が「些細なことでよく怒ること」でした。
先程のニュースを見た直後ということもあり、すごく驚きました。
些細なことで怒る人もいれば、故意ではないとはいえ自分の愛する妻と娘の命を奪った加害者に対して、怒るのではなく気遣うことができる人もいる。この違いはいったい何なのか、思わず考えさせられました。
その後、僕の中で「怒り」に対してある一つの結論が出ました。
それは「怒りとは傲慢である」ということです。
■感情には目的がある
感情には目的があります。例えば、「怒り」という感情は、他人を自分の思い通りに動かすために使われることがほとんどです。
子どもが言うことを聞かなかったとき、旦那さんに急にご飯をいらないと言われたとき、レストランで頼んだメニューがなかなか来なかったとき。
そんなとき、人は相手に怒ることによって自分の言うことを聞かそうと思って怒ります。
怒りは、相手を支配することと深い関係があり、怒ることで人は相手を自分の思い通りにコントロールしようとしているのです。
例えば、新婚夫婦を例にとって考えてみましょう。夫が急に「今日ご飯いらないから」と連絡してきたことに対して腹を立てている妻がいるとします。
夫:「急に飲みに行くことになって、今日はご飯いらないから」(18時過ぎ)
妻:「なんでこんなに急に連絡してくるのよ!信じられない、もうあなたの分までご飯の準備してるから!」
夫:「ごめん。明日の朝食べるから」
妻:「そういうことは前もって言ってよ!」
夫:「いきなり誘われたし、取引先の人だから断れないんだ」
妻:「妻がご飯を作って待っているのでこれからは事前に誘ってくださいと言えないの?」
夫:「そんなの言えないに決まってるだろ!」
妻・夫:怒りがヒートアップし、帰宅後も、喧嘩状態に
夫に急にご飯をいらないと言われた妻は、「もっと早く連絡しろ」と怒ります。それに対して夫は「ごめん。次から気を付ける」と謝ることになりますが、このとき妻の怒りの目的は何かと考えると、夫に「ご飯の有無を最低でも18時までに連絡させること」、これが目的です。
そして、妻が早く連絡してほしい理由は
・ご飯の用意を一回ですませたいから
・せっかく時間をかけて作ったのに、無駄になるのが嫌だから
・夫に出来立てを食べてほしいから
この3つくらいが挙げられます。これらは、結局、「夫に自分のことをもっと愛してほしいこと」を示しています。
なぜなら、妻のホンネは、作った料理を食べてもらえなかったことよりも、日頃、自分のしている家事への感謝が夫から無くなっていっていることに怒っていて、自分の努力が夫にとって、当たり前になってしまっていることが嫌だからです。
つまり、妻は夫にもっと愛してもらいたいのです。
さて、妻が怒ることによって夫の反応はどうなるでしょうか?
ご飯がいらない日は妻に早めに連絡することになるでしょうが、当然、急に誘われたときは妻への連絡が遅くなります。「また急にご飯をいらないと言うと、怒るだろうなぁ……」と思うと気が引けてしまってなかなか妻に連絡することができなくなります。
そうしていくうちに時間はどんどん経っていき、連絡するのがさらに遅れてしまいます。それだけ妻の怒りも増してしまいます。
また、夫は取引先の人から誘われる度に、「あぁまた妻から怒られることになるなぁ……」と憂鬱な気持ちになってしまいます。
ここまでで、妻が怒ることによって、夫は妻のことをもっと愛そうと思うでしょうか?妻のことをさらに好きになるでしょうか?
おそらく、遅く帰ったときに怒られると、夫は妻のことが嫌いになると思います。
それならば、この怒りの感情は間違った使い方をしてしまっていることになります。仮に早く連絡するようになったとしても、それは妻のことを愛していて好きで好きでたまらないからではなく、妻のことが怖いからに過ぎません。
夫に早く連絡してほしいなら、「あなたに出来立てを食べてほしいから、今日は早く帰ってきてくれない?」「せっかく作った料理を一人で食べるのは寂しいから、一緒に食べたいの」と言えばいいのです。
ところが、ほとんどの人が「こんなこと言えるわけない」と言います。「私が料理を作ってあげてるのに、なんでこっちから折れないといけないのよ」と。
なぜこれが言えないかというと、夫と妻の関係が、対等で協力的な関係になっていないからです。
妻は「わざわざ料理を〝作ってあげてる〟のに」と思っています。これは横の関係ではなく、もう完全に縦の関係です。
頑張って作った料理を、愛する旦那さんに美味しく食べてもらいたくて作っているはずなのに、こんな関係性で旦那さんと毎日楽しい食卓になるでしょうか?
このまま対等ではない縦の関係を続けていけば、必ずどこかでまたひずみが生じてしまうはずです。
夫婦の関係が、どちらかが勝ちでどちらかが負けといった競争的な関係だと、不健康極まりないのです。
「恋人のことが好きなのにイライラする」も同じような理屈です。「友達とはまず喧嘩しないのに、恋人とはよく喧嘩してしまう」って人いますよね。
恋人の方が好きなのに喧嘩をしてしまう。パートナーを愛しているはずなのに憎いっておかしいですよね。
この「恋人を好きなはずなのに憎い」という状況になったら、まず思い出してほしいのは恋人との関係性です。
この愛憎の感情は、おそらく対等な横の関係ではなく、縦の関係になってしまっているがゆえに生まれます。
例えば、あなたと友達とは対等な関係なので、何かハプニングが起きても友達に対してイライラしたり、怒ったりすることはありません。
しかし、恋人となると違います。心のどこかで無意識に「相手は自分の所有物だ」と思ってしまっているから、自分の思い通りにいかないとイライラして、恋人と喧嘩してしまうのです。
浮気されたときに「他の男に寝取られた」とか「あいつは俺の女だ」と言ったりしますよね。これはどちらかがもう片方を所有しているという発言です。
仮に性的な関係にあったとしても、人は他人を所有することはできません。当たり前ですが、セックスしたからといって、自分のものになるわけではありません。夫婦だとしてもです。
所有意識は縦の関係であり、健康な関係ではありません。一種の奴隷制度のようなものです。
不健康な関係にならないためにも、信頼ある協力的な関係性に戻る必要があります。対等な関係なら、自然と相手の立場になって考えられるようになるので、イライラしたり怒ったりしなくなります。
愛は対等な関係があって初めて成り立つのです。
■怒りとは傲慢である
このように、怒りという感情の目的は、自分が上になって、相手を下にすること、つまり縦の関係を強化することにあります。
言うことを聞かせたり、自分の方が相手より正しいと思ったり、何であれ対等でなくなること。怒るのは、相手に言うことを聞かせるためなのです。
だから、他人を自分の思いどおりに動かそうとすることをやめれば、怒らないですみます。
ではどういう時に人は怒ってしまうのでしょうか?
それは「自分が正しくて、相手が間違っている」と思う時、人は怒ります。
「彼女に正論を言っているだけなのになんでわかってくれないんだ」
「あの上司はなんて自分のことしか考えていないんだ、絶対に間違っている」
怒ってしまう人は「私は正しい」「私は完璧だ」という心理が根本にあるので、実際そうではない出来事に遭遇すると、その反動で怒ってしまいます。「自分にとっての正しさ」と現実とがずれているときに人は怒るのです。
この〝正しさ〟というものがとてもやっかいで、「自分の方が正しい」や「相手が間違っている」という考え方は喧嘩のもとになります。
なぜなら、正しさというのは、結局その人だけの正義であって、人類全体の正義でもなければ、まして宇宙全体の正義でもないからです。およそ人類の喧嘩というものは、夫婦喧嘩から戦争まで、この正しいか正しくないかに関係して起こっているのです。
「自分が絶対に正しい」という傲慢さに少しでも気づくことができれば、きっと相手の主張にも耳を貸すことができ、相手に対して怒ることもなくなると僕は思います。
つまり、「怒りとは傲慢」なのです。
ここで以前に自分が怒ってしまったときのことを思い出してみてください。
どうでしたか?絶対に自分が正しいと言い切れますでしょうか?
これは僕自身、非常に身につまされる話です。過去を振り返ってみると、大人になってからこの8年間で、2回怒っていました。およそ4年に一度のペースで怒っていたのですが、そのときのことを思い出すと、たいてい「自分は絶対に間違っていない」という前提のもと、相手から何度も何か不快なことをされ続けたときに怒っていました。
ただ、これは傲慢だったなと今になって思います。相手には相手の言い分があり、絶対に正しくないと言い切れなかったからです。
怒りについて書かれた古典『怒りについて』の著者である哲学者・セネカは言います。
「誰もが自分の中に王の心を宿している。専横が自分に与えられるのを欲し、自分がこうむるのは欲しない。だから、われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である」
「自分が正しい」と思うからといって、それは怒る理由にはならない。むしろ、「自分が正しいと思ってしまう傲慢さを思い知れ!」と言うわけです。
また、セネカはこう続けます。
「怒りは贅沢より悪い。なぜなら、贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して、怒りが楽しむのは他人の苦しみだからだ。怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす。それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して、怒りは不幸にするのを欲するからだ」
怒りは相手を不幸にするのを欲する……非常に力のある恐ろしい言葉ですね。怒りは害悪以外のなにものでもない。それくらい誰かに対して怒ることは良くないことだとセネカは断言します。
人間関係がうまくいっているときは、自分と相手が対等な横の関係にあるときです。「あなたは間違っている」と言って怒り始めたら、相手との関係は必ず悪くなります。
よく母親が子どもを怒ったり、先生が生徒を怒ったりするのは、間違えている子どもや生徒を直すための「正しい怒り」だと言う人がいますが、それこそ誤りなのです。
間違えただけなら、単にそのことを指摘すればいいのに、わざわざ怒るということは、その根っこに「自分が正しい、自分の言葉も正しい、自分の考えは絶対に正しい」という考えがあるからなのです。
そして、「しつけ」が良くないのは、常に一方通行であり、縦の関係を強いることだからです。親は変わらないままで、子どもだけを変えようとするのがしつけ的発想です。
「親は正しい存在だから変わる必要はない。だけどあなた(子ども)は間違っているからどんどん変わらなくてはいけない」というわけです。
ここにはやはり親特有の傲慢さがあります。子どもの親なのだから、絶対に正しい、偉いと勘違いし、自分ではなく相手を変えようと怒るのです。この根底にはやはり「傲慢さ」があります。
いい親とは、自分が間違っていたときにはそれをすぐに認め、自分自身が変わろうとし、子どもと共に成長することのできる親のことです。
現代社会において、怒りはほぼ役割を失っており、重要度の低い感情です。「相手にイライラしたからといって、怒りによって相手を傷つけていい」という理由には絶対になりえません。
「正しい怒り」など存在しないのです。
(ちなみに、不満には、「自分の現状に対する不満」と「他人に対する不満」がありますが、他人に対する不満は持たない方がいいです。
他人に対する不満を持ちやすい人は、何事においても「自分は悪くない」と勝手に思いがちです。「自分は絶対に悪くない」という傲慢さを捨てさえすれば、他人に対する不満は解消されます。なぜなら「自分にも悪い点がある」と気づくことができるからです。イライラし他人にあたるのでなく、いい方向に自分が変われば、きっと周囲の人たちも変わるはずです)
■嫉妬の力では、浮気は無くならない
ここまでで「怒りのメカニズム」が少しずつわかってきました。この怒りと似た目的を持って使われる感情があります。
それは「嫉妬」です。
嫉妬や束縛というものは、怒りを使って相手の愛情を取り戻そうとすることです。
ここまで怒りの無用さについて書いてきたので、怒りを使って愛情を取り戻そうとする嫉妬や束縛が、いかに無意味なことかがわかると思います。
また新婚夫婦を例に考えてみましょう。先ほどの続きです。
始めは仲が良かった新婚夫婦でしたが、「ご飯いらない」と遅く帰る度に妻が怒るので夫はだんだんと妻への愛情が薄まっていきます。次第に、夫は前日に「明日はご飯いらないから」と言っておき、綺麗な女性のいるような場所で遊んで帰るようになります。
それに対し、夫の浮気を疑う妻は、これからは仕事が終わったらすぐに帰ってくるように言い、徐々に束縛もきつくなっていきました。
ここで、いき過ぎた束縛をすると起きるであろうことは二つあります。
一つ目は、妻の怖れをなして浮気をやめること。二つ目は、嫌気がさして、ますます浮気をするようになること。
一つ目は浮気が無くなるから、束縛してもいいじゃないかと思うかもしれませんが、これもあまりよろしくありません。
なぜなら、仮に浮気が無くなったとしても、それは妻への愛情からではなく、恐怖心からやめただけなので、根本的な問題解決にはなっていないからです。
たいていの人は、愛する相手から愛情を取り戻すために嫉妬をしてしまいますが、そうすることで相手はますます離れていくことになるのです。
嫉妬される側になって考えてみてください。
「私との約束を守れないなら、もうご飯も作らないし、口も聞かないから」と夫に怒りをぶつけて、夫は妻のことを好きになってくれるでしょうか?嫉妬心から冷たくあたってしまうことで、愛してくれるようになるでしょうか?
おそらく嫌いになると思います。
妻は夫から愛されたいのでしょうか?それとも嫌われたいのでしょうか?
もちろん愛されたいですよね。
自分の怒りを相手にぶつけることで、自分だけすっきりして夫から嫌われるのと、怒りの矛先をおさめ、好きになってもらう工夫をすることで夫から愛してもらうのとでは、どちらを妻は選ぶべきでしょうか?
僕は後者だと思います。
もし、遊んで帰ってきたとき、妻が「毎日、遅くまでご苦労さま」といつも笑顔で優しく迎え入れてくれたら男性側はどう思うでしょうか?
どんなことがあっても信頼され続けると、人はその人のことを裏切れなくなります。きっと「この子だけは裏切れない」「一生、大事にしよう」と思うはずです。結果的に、浮気は無くなるのです。
こんなことを言うと、それは女性の気持ちがわからない男の発言だ!浮気を肯定しているのか!と非難されそうですが、もちろん浮気を肯定しているわけではありません。
考え方や価値観の違う男女が一緒に仲良く暮らそうと思ったら、嫉妬という間違った感情の使い方をするべきではないということです。
嫉妬と怒りで相手を自分の手中におさめようとすることで、相手が自分に再び振り向いてくれることは絶対にありえません。
愛情は「愛」を伝えることでしか取り戻すことができないのです。
■怒りには「遅延」が効く
「怒りとは傲慢であること」や「怒りを使ったコミュニケーションがいかに意味をなさないか」がわかったとしても、それでも相手から怒りをぶつけられるということがありますよね。そのときはどうすればいいでしょうか?
一つの対処法として、相手にも自分にも猶予を与えることです。怒りには「遅延」が効きます。
例えば、頻繁に喧嘩をするという恋人同士でも、結局仲直りしているということは、あとでどちらかが謝ったということですよね。
冷静になれば、謝れたり、自分の非を認められるということは、「わざわざ喧嘩してまで、その後で謝る」か、「怒りが沸いてきても、時間を置くことでその場で喧嘩せず、冷静になった後で解決する」(またはそもそも喧嘩するほどのことでもないとわかる場合がほとんどだったりもしますが)かになります。
それならわざわざしんどい思いをして喧嘩するのが馬鹿らしく思えてきませんか?
先ほど、僕自身この8年間で2回怒ったことがあったと言いましたが、そのうちの一回は大学生の頃、隣に住んでいた男性に対してでした。
隣人は度が過ぎたクレーマーでした。僕が引っ越して数ヶ月してから、毎日のようにうちに怒鳴り込んでくるようになりました。
掃除機をかけたらぶちギレられます。もちろん夜ではなく、昼間にかけているのに。居留守を使うとピンポンを連打され、挙句の果てにドアをがちゃがちゃされ家の中へ入って来ようとします。
僕が大学から帰ってきたら、インターフォンが壊されていたこともありました。また僕を眠りから覚まそうと、朝4時過ぎくらいに壁ドンを何十回とするという嫌がらせも受けていました。
これはさすがにやばいと、大家さんを交えて、僕とクレーマーと3人で話し合いの場を設けましたが、それでも一向に事態は改善しませんでした。
30代前後の隣人はフリーターなので一日中家にいます。そのため僕は心休まるときがありませんでした(家賃が安いところに住むとそういうことが起こるので注意が必要ですね)。
「まじで早く引っ越そう」、そう思っていたら、ちょっとした物音でまた隣のクレーマーがうちにやってきました。
このときはもう怒りを通り越して、諦めと呆れてしまっていたので、こう冷静に言ってみました。
「じゃあもうわかりました。もし、また僕の出す音がうるさくてキレたくなったら、すぐに怒鳴り込んでくるのではなく、そこは申し訳ないですが、ぐっとこらえてください。次の日になってまだイライラしていたら、その時はうちに来てください。謝ります」
こう言ったのです。それに対してクレーマーも渋々「あぁ、わかった」とぶっきらぼうに言い、自分の家へと帰っていきました。
驚くべきことに、それ以来、クレーマーが怒鳴り込んでくることは一度もありませんでした。
僕とクレーマーとの数ヶ月に渡る一悶着は突然これにて終焉したのです。結局、この家には8年近く住むことになったのですが(笑)、本当にこれ以来、一度も隣人がうちにやってくることはありませんでした。
大学一年生だった僕は、こんな何気ない一言がうまくいくなんて微塵も思っていなかったので、当時はなぜこれで怒鳴り込んでこなくなったのか謎で仕方がなかったのですが、おそらくこれは「遅延」のおかげだったのかもしれないと今にして思います。
隣人は僕の家から出る物音にイライラして怒鳴り込みたくなっても、試しに一度ぐっとこらえてくれたのだと思います。そして、次の日になってみて、全然取るに足らないことだったと気付いたのかもしれません。
このクレーマーとのやりとりから、「怒りに対して、怒りで応えてはいけない」ということを学びました。怒りに怒りで応対すると、お互いがヒートアップするだけで、不毛な水掛け論になり、必ずさんざんな結果になります。
なので怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしないことです。耳が聞こえず、正気ではないのですから。怒りに時の猶予を与えるのです。
緩和してきたとき、治療はよく効きます。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激します。他の疾患でも、激しい時は同様です。病気の初期段階は安静が癒してくれるのです。
人が怒っているときは、そっとその場から立ち去るべきです。頭に血が上っているときは、誰も冷静な話はできないからです。時間が経ち、落ち着いてから再び話し合えばいいのです。
あの時あんなに怒っていた人がちょっと時間を置いただけで、けろっとしていて拍子抜けしたという経験をした人も少なくないのではないでしょうか。
怒りには「遅延」が効くのです。
そして、もし、相手の怒りに対して自分も怒りを感じてしまったら、最初にすべきことは「怒りを感じること」です。
怒りは、怒りを観られた瞬間、落ち着いていくので、「まさに今、怒りの感情が沸いてきているなぁ」と感じることが大事なのです。
次に怒りが生まれたら、「これは怒りの感情だ」とすぐに自分を客観的に観察してみてください。そして、「自分の言い分は本当に正しいのだろうか」と自問自答してみるのです。
■正しい正しくないではなく、どう感情を取り扱うか
だいぶ長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございます。最後に、心に沁みるニューギニアで起きたある交通事故の話をさせてください。
ニューギニアなどの伝統的な社会と、日本やアメリカといった先進国とでは「対立」への対処の仕方がまったく違います。
『銃・病原菌・鉄』が世界的ベストセラーとなった進化生物学者のジャレド・ダイアモンド氏の著書の中にこんな話が出てきます。
あるとき、ある会社の社員が10歳の男の子を車でひいてしまいました。物陰からその子が飛び出してきて、ブレーキを引きはしたものの、気づいたときには時すでに遅く、結局、男の子は亡くなってしまいました。
例えば、アメリカであれば、すぐにまず事業主として弁護士を雇い、「どうやって引いてしまった人を弁護するか」という考えに集中するでしょう。
ところが、この事故が起きたのは未開の地であるニューギニアです。
全く対応が違いました。まず事故の翌日に、亡くなった子どものお父さんが加害者の会社を訪ねてきたのだそうです。そのとき「殺される!」と思ったそうですが(ニューギニアでは復讐で殺害することは非常にありうることだけに)、そのお父さんがやってきた理由は、こういうことでした。
「おたくの社員が事故を起こし、うちの子どもが亡くなりました。わざとやったことでないのは、わかります。けれど現在、私たち家族は非常につらい気持ちの中で暮らしています。ですから4日後に子どものことを偲んで昼食会を開こうと思っています。そこへ、来ていただけないでしょうか。また、その昼食会の食べ物を出していただけないでしょうか」
そういう話だったのです。
それからは、あいだに経験豊かな人が入って、どんな食べ物を持っていくべきかといった話がなされ、なんと事故が起こってわずか5日後に、その事故を起こした人の会社の社長や、幹部の社員、それから亡くなったお子さんのご両親や親戚が同じ食卓を囲んで、お昼を共にしたそうなのです。
これは日本だと考えられない話です。昼食会では、ひとりずつが弔辞のようにその子のことを想ってスピーチをしました。
例えば、その子のお父さんが亡くなった子の写真を持って「死んでしまって、本当につらい。さびしい。また会いたい」といった話をしたり、その場にいる人たちが亡くなった子どものことを想ってみんな、泣いているわけです。
そして、加害者にもスピーチの番がまわってきたそうです。彼はもう、あとで振り返ってもあんな辛いスピーチをしたことはなかったと言っていました。声を絞り出すように「……自分にも子どもがいます」と、始めたのだそうです。
そして、「だからこそ、突然に子どもを失う気持ちというのはほんの多少ですけれども、私にも察することができます。今日はこうして食べ物を持ってきましたが、こんなものはお子さんの命に比べたら、ほとんど価値のないものだと思います」と、そんなスピーチをしたそうなのです。
こんな風に、伝統的社会では「対立」が起こったときに「お互いの感情をどう処理し、どう落ち着かせるか」に重きをおきます。
「どのようにして関係を修復するか」といった感情の処理をとても重視した対立の解消方法であるわけです。
一方、日本などの先進国の社会で「対立」が起こったときに大切なのは、「どちらが正しいか」です。
警察や裁判所の考え方も「どちらが正しいか、間違ってるか」が何よりの争点で、それぞれの感情の処理にはまったく思いをめぐらせないのです。
もちろんこれが完全に良くないというわけでは決してありません。
それでも、ちょっとした人間関係のいざこざであるならば、「正しい正しくないではなく、生じてしまった負の感情をどう取り扱うか」を考えていく行動をする方がよっぽど関係が修復できるのじゃないかなぁと僕は強く思いました。
世のなかには理不尽なことが溢れています。ここまで怒りについて様々なことを書いてきましたが、「自分が圧倒的に被害者なのに、どうしても自分が傲慢だなんて思えない!」「あいつの方が悪いのに!」とやっぱり思ってしまうこともあるかもしれませんよね。
そのときは、相手のためではなく、自分のために、相手を許してみてはどうでしょうか。
相手に憎しみや怒りを感じると、自分自身がネガティブな感情に支配されてしまいます。その支配力は、僕たちの睡眠、食欲、血圧、健康、幸福にまで及んできます。憎悪は相手よりも、僕たち自身を苦しめることになるのです。
もし憎い相手がいたとしても決して仕返しを考えてはいけません。仕返しを考えると、相手ではなく、まず自分自身が傷ついてしまうからです。
ひどくを傷つけられて喧嘩別れした場合、「相手に罪の意識を背負って生きてほしいから、相手を絶対に許さない」と言う人がいますが、それはおそらく相手だけでなく、自分自身も傷ついてしまいます。負の感情に支配され続けてしまうからです。
怒りや憎悪はなかなか消えるものではありませんが、「絶対に許さないからな!」と憎しみを募らせたり、「どうやったら仕返しができるのか」を考えるのではなく、自分自身の健康と幸せのために、相手を許すのです。
この記事の冒頭で書いた交通事故で最愛の妻と娘を亡くしてしまった遺族の男性も、きっと自分や被害者のためにも、加害者を理解しようとし、気遣い、許したのだと僕は思いました。
許すことはとても辛いことです。でも許さないことは、もっと辛いことだから。
参考文献:『怒りについて』(セネカ)、『怒らないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ)、『昨日までの世界』(ジャレド・ダイアモンド) 、『道は開ける』(D・カーネギー)、『性格は変えられる』(野田俊作)、『劣等感と人間関係』(野田俊作)
■Twitterはこちら
■Facebookはこちら
https://www.facebook.com/yuuta.morii.12
■関連記事
「怒り」についてまた別の切り口から書いています。
■人気記事